これは必見!(その35) 

37「北野天神縁起絵巻(承久本)」 (11)巻5「祈天拝山」

死を目前にして紀長谷雄に詩巻を託した巻4末尾から、少し時間は遡ります。
無実を天に訴えるべく、道真は大宰府郊外にある山へ登る事にしました。

自らしたためた祭文(さいもん)を山頂で掲げ、一心不乱に祈りを捧げていると、
祭文は虚空へ高く舞い上がりました。
梵天(ぼんてん)と帝釈天(たいしゃくてん)が彼の願いを聞き入れたのです。

天満大自在天神(てんまだいじざいてんじん)の名を与えられ、
道真は生きながら神となりました。
そして、この山は後に天拝山(てんぱいざん)と呼ばれるようになりました。

祈天拝山

(写真提供:九州国立博物館)


「軟禁状態に置かれた病弱の老人」という背景により、
この話はあくまでもフィクションたりえます。
しかし、道真の死後2世紀後にはすでに存在した話であったらしく、
院政期の学者・大江匡房(おおえのまさふさ)の
言談録『江談抄(ごうだんしょう)』に触れられています。

匡房は大宰権帥(高官の左遷用ポストではなく、実際に職務を遂行する権帥)として
現地に赴任した経験があり、詩文を読むと、
他にも天神縁起の母体となる話をいくつか知っていた事が伺えます。

ところが、その彼をしても、
現代日本人にとって最も有名なはずの飛梅の話は語られていないのです。
匡房より後に成立した天神縁起の、さらに後で生まれた話だから当然ではありますね。

これは必見!(その34) 

37「北野天神縁起絵巻(承久本)」 (10)巻3「紅梅別離」

901年2月1日、道真は慌ただしく都を出立する事になりました。
出発を前に、自宅の梅に惜別の情を込めてこう呼び掛けました。

  東風吹かば匂ひおこせよ梅の花 主なしとて春を忘るな

この歌に感応した梅は、やがて一夜で海を越え、大宰府に着いたとされ、
現在も太宰府天満宮に咲く飛梅(とびうめ)のルーツになっています。

こう書くと、「『春な忘れそ』ではないですか?」という声が必ず上がります。
ただこれを説明すると長くなるので、今回は控えたいと思います。
一言で書けば「とりあえず『拾遺集』を見て下さい」となりますね。

これは必見!(その33) 

37「北野天神縁起絵巻(承久本)」 (9)巻3「法皇佇立」

901年1月25日、右大臣菅原道真を大宰権帥(だざいのごんのそつ)に左降する
宣命(せんみょう)が出されましたが、宇多法皇がそれを知ったのは数日後でした。

醍醐天皇に翻意を促そうと、法皇は慌てて内裏に駆けつけます。
しかし厳戒態勢の宮中には、どうしても立ち入る事ができませんでした。

木のかたわらでなすすべもなく立ち尽くす法皇。
その前にひれ伏すのは、蔵人頭(くろうどのとう)藤原菅根(すがね)です。

彼は道真の弟子ですが、天皇の即位前からの側近でもあり、
忠実な官房長官として職務をまっとうする道を選びました。
この直後、法皇の参内を妨げたとして、大宰府に左遷されますが、
あくまで形式上の措置であり、すぐ京官に復帰しています。

これは必見!(その32) 

37「北野天神縁起絵巻(承久本)」 (8)巻3「行幸密議」

会期後半に展示されるのは巻3と巻5。今回から順番にあらすじを書いてゆきます。

醍醐天皇は父宇多法皇の御所を訪れ、両者の間で極秘会議が開かれました。
その結果、呼び出されたのは左大臣藤原時平ではなく、右大臣菅原道真。

「そなたを関白に任じようと思う」。

この言葉に道真は驚愕し、ただひたすら固辞するばかりでした。

呼ばれた口実を作るため、道真は詩の題を賜ってから公卿の控え室に戻りましたが、
自分を差し置いて呼び出された事に対し、時平は不満の色を隠せませんでした。

行幸密議

(写真提供:九州国立博物館)


道真を関白に任じようとしたが、未遂に終わったという話は、
安楽寺の巫女の託宣に出てきますが、真偽の程は定かではありません。

ただ、「寛平御遺誡」の内容でも分かるように、宇多院と道真の君臣関係は、
あまりに親密すぎて周囲の邪推を買う余地があったのは事実です。

展示部分は行列に従う人々の姿が延々と続きますが、本題は左端にちょっとだけ。
室内に座す天皇と法皇の前に、平伏する正装の道真。

この無意味なまでの冗長さが、承久本の特色でもあります。

これは必見!(その31) 

18「菅家後集(かんかこうしゅう)」

大宰府時代の作品を中心とした道真の漢詩集です。全1巻。

道真の作品を読む場合、この作品集、
とりわけ「九月十日」あたりから入るケースが多いと思います。
しかし江戸時代においては、なかなか活字化されなかった事もあり、
知識人にとって「名前は知っているが実際に見た事はない」古典でした。
(それどころか、現代では「名前も知らない」古典ですね……。)

今回展示されるのは尊経閣文庫が所蔵する、前田家甲本と呼ばれる写本。
現存する後集の中で最も良いものとされ、
日本古典文学大系(岩波書店)の底本にも用いられています。

その奥書によれば、もともとの題は『西府新詩(さいふしんし)』でした。
西府とは平安京のはるか西に位置する大宰府のこと。
臨終を前に、大宰府で作った漢詩のうち、
「自詠」から「謫居春雪」までの39首を一巻にまとめ、
都にいた紀長谷雄(きのはせお)へ送ったものです。
長谷雄は異郷に果てた才能を惜しみ、後世にもその名が残るだろうと評しました。

その後、冒頭部に右大臣時代の詩を増補したのが、現在の『菅家後集』です。
道真自身が命名した『菅家文草(かんかぶんそう)』と
対比して名付けられたのでしょう。

最後に手元に残されたもの=漢詩と孤独に向き合った記録なので、
人によっては「消極的」「情けない」という印象を受けるかもしれません。
でも、自分の傷をえぐるような事はなかなか書けないんですよね、普通。

「私はここにいる」。その響きにちょっと寄り添ってみるのも良いものですよ。