渡唐天神(その4) 

渡唐天神は絵と文章の組み合わせで構成されますが、
文字を読み解くのが結構大変なので、絵だけ見てみると、
いくつかのバリエーションがあることに気がつきます。

・初期型:真正面を向き、体の正面みぞおちのあたりで手を組む。
     袈裟袋と梅の枝は体の右側に置き、足元には白い足袋を履く。
 (渡辺美術館(鳥取市)が所蔵する南北朝時代のものは手を組む位置が
  若干ずれていますが、足袋とずんぐり体型から見て初期型と思われます。)

・梅と松の間に座らせる雪舟スタイル
 (雪舟のものは、1/25まで千葉市美術館の特別展「雪舟と水墨画」に出ています)

・冠ではなく頭巾をかぶって横方向に歩く、携帯可能なサイズの祥啓(しょうけい)派
 (赤ずきんちゃんに見えるのは気のせいでしょうか……。)

・手の位置を腰の高さまで下げ、正面を向いたまま両腕のみ左側にねじる狩野派

・近衛信尹や白隠の文字絵

・頭身が伸びて全身でAラインを描き、白い帯を垂らし、靴を履き、
 体の左側に梅を置く中国製
 (今回展示されている76がそれですが、体の中心で手を組まない点など、
  基本形とはかなり異なっており、湯島天神所蔵のものの原画と思われます。
  『天神さまの美術』図録142頁の104が王道の図柄。)


今回展示されなかったものには、他にこのような系統があります。

・裙(くん)(丈の長いスカート)と靴を履き、上着をはおり、袈裟袋は体の左側、
 右脇に回した左袖に右袖をかぶせ、右手で持つ梅の枝を左腕の上に置くもの
 (『天神さまの美術』図録141頁の102)

・風を背中で受けながら、梅の枝に顔を近づけて香りを嗅ぐもの
 (『天神さまの美術』図録145頁の109)

・袈裟を袋に入れず、実際に羽織っているもの
 (京都国立博物館に1点あるだけと聞いていましたが、
  東北歴史博物館が所蔵する小池曲江のものもまさにこれです)

これだけ多様性に富んでいると、往昔はひどく普及していたようですね。
個人的にはかの武田信玄が模写したという一蓮寺(甲府市)のものが見てみたいです。

渡唐天神(その3) 

天神が無準師範のもとを訪れたのは仁治2(1241)年12月18日といいますが、
それから30年が経過した文永8(1271)年10月1日、
天神は博多承天寺(しょうてんじ)にいた円爾の弟子、
鉄牛円心(てつぎゅうえんしん)の前に現れます。
そして件の袈裟を安置して欲しいとの言葉と共に、袈裟を残して消えました。

10月25日、円心は大宰府の自分が生まれた場所に僧房を結び、
伝衣塔を建てて袈裟を安置しました。これが現在の光明禅寺の由緒となります。

渡唐天神(その2) 

さて南宋は径山(きんざん)興聖万寿禅寺(こうしょうまんじゅぜんじ)。
海の向こうでそんなやり取りがあったとは知る由もない無準師範。
朝起きてみると、昨日まではなかったはずの草が庭に生えています。
いぶかしんでいると、梅の枝を手にした人物が突然目の前に現れました。

「どなた様ですか?」
彼は無言で庭に生えた草を指さしました。

禅の高僧だけあって、無準はとっさに状況を理解しました。
(この草は日本でいうところの菅(すげ)、日本の菅神であろう……。)
円爾の意見を聞き、天神は早速無準のもとを訪れたようです。

天神は無準の前にひざまづき、梅の枝と共に和歌1首を捧げます。

  唐衣(からころも)織らで北野の神ぞとは 袖に持ちたる梅の一枝(ひとえだ)

無準は弟子入りの証として、天神に袈裟(けさ)と偈(げ)を与えました。

渡唐天神(その1) 

仙冠道服という、ゆったりとした中国風の衣装に頭巾と冠をかぶり、手には梅の枝。
平安貴族らしい束帯姿とは遠くかけ離れた格好ですが、これも天神さまの姿です。

渡唐天神立像

(写真提供:九州国立博物館)


水鏡天満宮蔵の渡唐天神立像(78)。
彫刻タイプのものは珍しいのですが、福岡天神の名前の由来となった神社にあり、
飛梅を材料に作られた像ということで、大々的にネタにされていました。

中国に渡った天神さまの物語は、基本テキストである
『両聖記(りょうせいき)』『天神伝衣記(てんじんでんえき)』
『菅神入宋授衣記(かんしんにっそうじゅえき)』の他、
瑞渓周鳳(ずいけいしゅうほう)の『臥雲日件録(がうんにっけんろく)』や
太極(たいきょく)の『碧山日録(へきざんにちろく)』といった、
室町時代の臨済宗のお坊さんの日記にも記載があります。
それはこんなお話です。

大宰府に住む富豪の夢枕に天神が立ち、こう告げました。
「戒律を遵守している僧を集め、法華経を読ませて欲しい」。
富豪は言われた通りにしましたが、
「人数が足らない」と夢で天神からダメ出しを受けてしまいます。

困った富豪は、当時南宋から帰国して博多にいた聖一国師(しょういちこくし)こと
円爾(えんに)(1202〜1280)に相談します。
彼は水晶の数珠を10個(または100個)用意するよう答えました。

数珠を部屋の回りに掛け、円爾自身は部屋の中央に座ります。
水晶の数珠の一つ一つに自分の姿を映して法華経を読む事で、
天神の求める頭数の僧侶を確保するというアイデアです。

満足した天神は、円爾のもとを訪れ、弟子にして欲しいと頼みました。
しかし円爾は自分の師匠である無準師範(ぶしゅんしばん)(1178〜1249)
への弟子入りを勧めました。

新撰万葉集 

別名『菅家万葉集』。全2巻。

新撰万葉集

(写真提供:九州国立博物館)


宇多天皇の母、班子女王が主催した寛平御時后宮歌合
(かんぴょうのおんとき きさいのみやのうたあわせ)や
宇多天皇の同母兄が主催した是貞親王家歌合(これさだしんのうけうたあわせ)
の席で詠まれた和歌を中心に編纂されています。
この歌合での歌は、初の勅撰和歌集である『古今和歌集』にも採録されており、
それに先行するものと言えます。

寛平御時后宮歌合

(写真提供:九州国立博物館)


10/19まで展示された東京国立博物館蔵の十巻本『寛平御時后宮歌合』(13)冒頭部。
国宝です。

同時期に成立した大江千里(おおえのちさと)の『句題和歌(くだいわか)』は、
漢詩の句を和歌に翻案したものですが、『新撰万葉集』はその逆を行きます。
まず元となる和歌を、仮名書きからわざわざ万葉仮名表記に直して書き、
内容を踏まえて作られた七言絶句が添えられています。

これが展示されていたのは、編者は道真だと古くから言われてきたため。
もっとも、下巻は序文に「延喜十三(913)年」と明記されており、
後人の手によることは容易に判明します。
ところが、上巻の序文に「寛平五載(893)秋九月廿五日」とあるために、
上巻の編者は誰なのか、という問題が生じました。

さらに話を複雑にするのが、その序文の記述。

「『先生』は和歌を賞賛するだけでなく、絶句一首を和歌数首に添えた」

とあり、文字通りに取れば、
和歌を漢詩に翻訳するというアイデアを最初に出した人物は、
序文の編者ではないということになってしまいます。
しかも和歌数首に対して絶句1首であり、現在の一対一の関係ではありません。

「先生」=道真なのか、それとも「先生」は別人で、序文の作者が道真なのか。

当代随一の文人としての地位を不動のものにしていた道真が、
自分で編纂した書物の序文を他人に任せるとは到底考えられないので、
道真の周辺の人々が作ったものではないか、というのが一つの見解です。
漢詩の中には道真が(座興で?)訳したものもあるでしょう。

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