これは必見!(その18) 

2「銀装革帯」

道真の遺品とされる革製のベルトです。何と革の部分まで残っています。
飾り部分は、銅を銀でメッキし、水晶をはめ込んだもの。

硯同様、これも中国からの輸入品です。
現代の日本人なら、フランス製の品々で身の回りを固める感覚なんでしょうね。

銀装革帯

(写真提供:九州国立博物館)


国宝だけあって、復元品が存在します。そうなりますと……。
「巻いてみたら、道真のウエストサイズが分かるのでは?」
そう考えて実際に巻いた人がいます。

この人が誰かは少しうろ覚えなんですが、
「ふくよかではないけれど、細身とは言えない中年男性」だと
書いておきましょう。道真さん、人並みにメタボ入っていたのですね……。

これは必見!(その17) 

52・55・61「束帯天神像」 (55:〜10/19、52・61:〜10/26)

道真=天神の肖像画のスタンダード、
束帯天神(そくたいてんじん)の鑑賞方法の話です。

束帯天神

(写真提供:九州国立博物館)


平安貴族である道真にとっては、束帯こそいたってオフィシャルな格好ですが、
描き方に一定のルールがあるのです。
すなわち、「憤怒の感情を仕草のはしばしに忍ばせる」。

具体的には、以下のような仕草で表現されています。
「眉をしかめる」
「口を軽く開き、食いしばった歯をのぞかせる」
「左手に持つ笏(しゃく)を、右手で上から押さえつける」

55(中央)はこの構図を踏まえた典型的な例で、
さらに目を大きく見開いています。
残念ながら今回は出ませんが、
道真像として広く知られる北野天満宮の「根本御影」にしても、
よく見ると眉根が寄っていたり、まなじりを決していたりするのです。
京都国際文化交流財団による写真を思い切り拡大すると良く分かります。)

52(右)は荏柄天神社の「雲中(うんちゅう)天神」と呼ばれるもの。
落雷の最中に天から落ちてきた天神画像がこの図柄だったという事で、
雲に乗って立つ姿を描いた、珍しいものです。
会期後半には、この巨大バージョンが出ますので、乞うご期待。
(その際は、ちょっと面白い昔話も出す予定です。)

61(左)は岡山県立美術館が所蔵する、雪舟等楊の筆によると伝えられる一品。
松と梅の間に座らせるという、独特の構図で描かれています。
ちなみに、山口県立美術館の特別展「雪舟への旅」では
渡唐天神像も展示されました。
こちらは彼の出身地である岡山県総社市の「広報そうじゃ」の連載
「雪舟逍遥」第11回(2007年2月)(PDF版もあり)で見られます。

これは必見!(その16) 

48「天満宮縁起画伝(満盛院本)」 (〜10/19)

天神縁起には、大きく分けて「文字だけ」「文字と絵(=絵巻)」
「絵だけ(=掛幅)」の3パターンがあります。

掛幅は、その名の通り壁に掛け、絵に描かれた内容を横に立って説明するもの。
内容に沿って細かくコマ割りされています。
絵巻よりも大勢の人を相手にできるメリットがありますが、
パワーポイントとレーザーポインターを使うようなものなんでしょうか?

天満宮縁起画伝・満盛院本

(写真提供:九州国立博物館)


こちらは全部で8巻もあり、コマ数も非常に多いです。
「川面に姿を映す道真」「ナマズを退治する道真」など、
福岡ならではの話も追加されていますが、読み解けないものもちらほら。
さすがの味酒さんも、完全読解は不可能との事でした。

これは必見!(その15) 

37「北野天神縁起絵巻(承久本)」 (7)未完の縁起絵巻

巻7の冒頭には、道賢(どうけん)が地獄を訪れるシーンがありますが、
いっこうに詞書のないまま、巻8まで延々と地獄と六道の描写が続きます。

絵巻の裏打ちに使われていた下絵には、
天神縁起絵巻の基本的なシーンが、判別が困難なほど薄い墨色で描かれており、
当初はきちんと完結させる予定であったのが、
何らかのトラブルが発生して未完のまま中断したと考えられています。

誰が、何のために、この絵巻を作ろうと考え、なぜ中断に至ったか?
これらの問いに対し、決定的な答えはいまだに出ておりません。

これは必見!(その14) 

37「北野天神縁起絵巻(承久本)」 (6)巻6「落雷災禍」「落飾崩御」

930年の夏は旱天(かんてん)が続き、いっこうに雨が降りませんでした。
そこで6月26日、貴族たちは宮中の清涼殿(せいりょうでん)に集まり、
醍醐天皇の臨席を仰ぎ、雨乞いの実施について会議を開きました。

会議のさなか、午後1時頃に西北の愛宕(あたご)山方面から黒雲が発生し、
一天にわかにかき曇り、平安京は雷雨となりました。
すわ恵みの雨かと喜んだのもつかの間、
午後2時半頃、清涼殿の南西の柱に雷が落ちたのです。

承久本・落雷災禍

(写真提供:九州国立博物館)


この時の被害は建物の損壊に留まりませんでした。

会議の出席者では、
大納言藤原清貫(きよつら)が焼死し、右中弁平希世(たいらのまれよ)が重傷。
隣接する紫宸殿(ししんでん)にいた
右兵衛佐(うひょうえのすけ)美努忠包(みぬのただかね)も即死。
紀蔭連は腹部に、安曇宗仁(あずみのむねひと)は膝にやけどを負いました。

清貫と希世は半蔀(はじとみ)(雨戸の一種)に乗せられて
宮中から運び出され、そのまま自宅へと向かいました。
両家に仕える者たちが悲報を聞いて宮中に殺到し、
いくら制止しても泣き叫ぶ声はとどまるところを知りませんでした。

絵巻では落雷とその被害の話にしか触れておらず、
詞書も非常に短いものとなっています。
そこで歴史書『日本紀略(にほんきりゃく)』の記事により書いてみました。

この出来事を目の当たりにした醍醐天皇は、病に倒れます。
3ヶ月後、回復の見込みもないまま8歳の皇太子寛明(ひろあきら)親王に位を譲ります。
さらに1週間後、病床で出家したその日に崩御(ほうぎょ)してしまいました。

承久本・落飾崩御

(特別展図録より転載)


常寧殿(じょうねいでん)に読経の声が低く響きわたり、諸臣が涙をぬぐう中、
画面左上で仰向けになった醍醐上皇は、もうろうとする意識の下、
僧侶にカミソリを当てられています。これが延喜親政の終焉でした。

この光景を最後に、巻6は幕を閉じます。

これは必見!(その13) 

37「北野天神縁起絵巻(承久本)」 (5)巻6「公忠奏上」

923年、皇太子保明(やすあきら)親王と時期を同じくして、
源公忠(みなもとのきみただ)という人物が急死しました。
ところが、彼は2〜3日後に息を吹き返し、「内裏に連れて行け!」と口走りました。
息子2人は訳の分からないまま父親と共に内裏に参上したところ、
公忠が醍醐天皇に報告した内容は、恐るべきものでした。

「冥府(めいふ)にたどり着いたところ、
 束帯姿の大男が黄金の文ばさみを手に、陛下の非道を切々と訴えておりました。
 30人あまり役人が居並ぶ中、その内のひとりが薄笑いを浮かべて、
 『今の帝は愚か者ですが、改元でもしたらどうしましょうか?』と口にしたのです。」

「束帯姿の大男」が道真だと察した醍醐天皇は恐れおののき、
道真を右大臣に戻し、正二位(しょうにい)を追贈しました。
さらには道真を左遷した時の詔書を焼き払い、
「延喜(えんぎ)」から「延長(えんちょう)」へと改元しました。

承久本・公忠奏上

(特別展図録より転載)


階(きざはし)に登り、顔を伏せたまま事の次第を奏上する公忠。
左上隅では、普段着姿の醍醐天皇が不安気な表情で聞き入っています。

公忠が急死した話は虚構かも知れませんが、醍醐天皇の取った行動は史実です。
愛息保明親王の死が、道真の祟(たた)りによるものだと世間は噂しました。
詔(みことのり)から年号まで、道真の左遷につながるものを一掃し、
保明親王の息子を皇太子に据えましたが、
新皇太子も2年後にあえなく亡くなってしまいます。

そしてさらに5年が経過した年の晩夏、未曾有の椿事が宮中を襲います。

これは必見!(その12) 

37「北野天神縁起絵巻(承久本)」 (4)巻6「時平病臥」

源氏との共闘で道真を政界から追い落とした左大臣藤原時平(ときひら)ですが、
それからわずか8年後、909年4月4日に39歳の壮年で亡くなってしまいます。

普通に長生きしていれば、政治家としてそれなりの評価を受けられたところ、
摂関家の本流は同母弟忠平(ただひら)に奪われ、
道真左遷の首謀者として責任を一身に背負わされ、
今なおただの悪役扱いで、割に合わない人生になってしまいました。

承久本・時平病臥

(写真提供:九州国立博物館)


ここに描かれたのは、その時平が亡くなった日の話です。

投薬治療も祈祷も効果がないので、時平は三善清行(みよしのきよゆき)の息子である
浄蔵(じょうぞう)を呼び、祈祷を行わせました。

昼過ぎに清行が見舞いに訪れると、時平の両耳から蛇が首をもたげています。

承久本・時平病臥

(特別展図録より転載)


画面右端に座すのは三善清行。右下隅で祈っている僧侶が浄蔵。
相対して病床に臥す時平の両耳には蛇の姿が描かれています。

蛇は清行の姿を認めた途端、こう一喝しました。

「帝釈天に怨敵(おんてき)を討つ許しを得たというのに、
 貴殿は息子に私を調伏(ちょうぶく)させる気か!」

清行は慌てふためき、別室にいた浄蔵に祈祷を中止するよう伝えました。
(絵巻では同席していますが、護摩壇を使うため別の場所になります。)
浄蔵が席を立った途端、時平は息絶えてしまいました。

甥の皇太子保明(やすあきら)親王は21歳で急死。
孫の皇太子慶頼(よしより)王は5歳で夭折。
長男の八条大納言・保忠(やすただ)は47歳、
三男の枇杷(びわ)中納言・敦忠(あつただ)は38歳で早世し、
長寿を誇ったのは、質素な生活に徹した
次男の富小路(とみのこうじ)右大臣・顕忠(あきただ)ばかりで、
本院(ほんいん)の血筋は時代に埋没しました。
この辺の話は『大鏡』に詳しく述べられていますので、
関心を持たれた方はご一読下さい。天神縁起の元ネタの一部になっています。

これは必見!(その11) 

37「北野天神縁起絵巻(承久本)」 (3)巻4「配流陸路」(その2)

わざわざ長文を引いたのは、もう一つ理由があります。
後半が道真の「楽天(らくてん)が『北窓(ほくそう)の三友』の詩を読む」を
そのまま引いている事は一読するとすぐ分かるのですが、
実は前半も「意(こころ)を叙(の)ぶ、一百韻(いっぴゃくいん)」という漢詩を
下敷きに書かれている文章なのです。

「生涯に定地なく、運命は皇天にあり」の絶唱から始まる1千字もの長編を
かいつまんで意訳すると、このようになるでしょうか。

生涯に定めなどなく
運命は天のしらしめすところ
思いもよらなかった 大宰府に赴任することになるとは……
右大臣の名は なぜ左遷にすり替わったのだ?
塵よりも軽く引きずり下ろされ
弓のように急激に放り出された
恥じ入る事を繰り返して 厚顔無恥となり
踵(くびす)を返す暇(いとま)もなく追い払われた
年老いた召使いは いつも杖にすがっている
疲労した馬には 何度も鞭(むち)を打つ
分かれ道に来ると 腸(はらわた)ははち切れんばかりに痛み
都城の門を遠望すれば 目に穴があく思いだった
朝露にまぎれて涙を流し
ホトトギスにかこつけて嗚咽(おえつ)する
     (中略)
害悪を加えられる事は避けようがない
だが汚名は雪(そそ)ぎたいと思う
邪悪なものが正義に勝ったためしはない
それとも真実は虚構に取って代わられるのだろうか?
     (中略)
同病相哀れむ友を求め
辛さを分かち合える故人を探し求める
才能はとうとう行き詰まり
富は結局のところつまづくもの
傅説(ふえつ)は宰相になる前は傅巌(ふがん)で杵(きね)を振るい
范蠡(はんれい)は湖に小舟を浮かべて越(えつ)を去った
賈諠(かぎ)が左遷された長沙(ちょうさ)の地は湿気が多く
屈原(くつげん)が身を投げた湘水(しょうすい)は水が巡り流れる
従二位(じゅにい)を授けられ 私は無意味に位ばかりが高くなった
誰を後任として数合わせの右大臣に据えたのだろうか
親友は食物を分け与えてくれ
親戚は衣服を洗ってくれた
すでに生きる辛さを慰められてきた
どうしてすぐにでも死にたいなどと考えようか?
     (中略)
運命の転変を恨むつもりはない
人生の辛酸は前世からの因縁
少しずつ快楽を捨て
徐々に生臭いものを遠ざける
合掌して御仏に帰依し
心をめぐらせて禅を学ぶ
果てしない今の欲望を嫌い
先人の真実の悟りを敬(うやま)う
     (中略)
世間とはますます疎遠になり
家から手紙が届く事もない
やせて帯がゆるくなり 紫色の服は色あせてしまった
鏡を見ると白髪頭が嘆かわしい
今の心境は 雲の合間を縫って飛ぶ雁(かり)
木にしがみつく蝉のように 寒々とした声で鳴く
蘭の香りが損なわれる秋になり
九回満月を迎えた
     (中略)
責任は千斤(せんきん)もの巨石より重く
立場は万仞(まんじん)の淵(ふち)に臨むように危ういものだった
大臣大将を兼ねて仰ぎ見られる立場になったが
人には功績も知識もないと口を揃えて言われた
     (中略)
つたない器ながら帝に重用され
つまらぬ小舟ながら補佐して大いなる川を渡った
国家の恩徳に応えられぬまま
辺境でのたれ死にしてしまうのだろうか
     (中略)
私に対する処分は法律の規定よりも厳しい
功績を石に刻み 後世に伝えられる事もなくなった
忠誠を誓い 君主の鎧(よろい)となろうとした事を後悔している
加えられた刑罰は 矛(ほこ)を振り下ろされるよりも辛い
取るに足りないかやぶきの貧居
陰鬱な海のほとり
私の住まいはこれで充分
この地が終焉の地になるのだろう
たとえ羊〓(ようこ)の魂が 故郷の〓山(けんざん)を慕っても
遠く離れた燕(えん)の地に埋葬されたら 彼はどう思うだろう
禍福はあざなえる縄だと思い知らされた
運命を占うつもりなどない
思いのたけを一千文字に込めたところで
誰が哀れんでなどくれようか

3分の1程度でも、すさまじい量ですね。
絵巻の詞書との対応を考えれば、書き下しの方が良かったかも知れません。
道真の慟哭が通じなくなる可能性は極めて高いのですが……。

承久本・配流陸路

(特別展図録より転載)


前の簾(すだれ)を巻き上げているのは、護送されていることを示すもの。
衆目にさらされるのは、堪え難い屈辱であったことでしょう。
実際、「意を叙ぶ」には、道中にあふれ返る野次馬を前に、
「胸焼けをこらえきれずに吐き、身も心もぼろぼろになった」という
趣旨の記述が見えます。

なお、展示されてはいませんが、巻4は以下のように展開しています。
船で瀬戸内海に乗り出す道真一行、
大宰府で秋を迎え、醍醐天皇から頂いた衣を前に涙に暮れる道真、
そして彼の死を受けて届けられた漢詩を前に天を仰ぐ紀長谷雄(きのはせお)。

巻1から始まった生前の物語は、ここで一旦結末を迎えます。

これは必見!(その10) 

37「北野天神縁起絵巻(承久本)」 (2)巻4「配流陸路」(その1)

巻3の終わりで、紅梅殿の梅に別れを告げた道真は、山陽道を西に向かいます。

巻4冒頭の詞書(ことばがき)は非常に美しいものですから、
長くなるのを覚悟で御紹介したいと思います。

承久本・配流陸路

(写真提供:九州国立博物館)


生涯は定まれる地なし。運命は皇天(こうてん)にあり。
思はざりき、大臣・大将より大宰(だざい)の権帥(ごんのそち)に
遷(うつ)されて、
輔弼(ほひつ)阿衡(あこう)の貴名を改めて、
配流(はいる)左遷の拙(つたな)き名を継がんとは。
朝の露をば袂(たもと)の上に打ち払ひ、
呼ぶ小鳥の声こそ枕上(ちんじょう)に伴へ。
     (中略)
五代帝王の御幸(みゆき)には、緑〓(りょくじ)の馬に乗りてぞ、
鳳輦(ほうれん)の御先(みさき)には打ち給(たま)ひしに、
駅馬の蹄(ひづめ)痛く、鞭(むち)をのみ費やす。
     (中略)
傅築(ふちく)巌辺(がんぺん)の〓(ごう)、
范舟(はんしゅう)湖上の篇、
我が身いかなる悪果に引かれて、旅の空に漂ひて、
雲を開く雁(かり)に伴ひ、
日終(ひねもす)に吟じて樸(ぼく)を抱(いだ)く蝉とも成りぬらん。

三峡五湖の暁(あかつき)の波に涙流れ添ひ、
呉坂楚嶺(ごはんそれい)の夜な夜なの嵐に目をのみ覚ましつつ、
昔を思へば、
器の拙(つたな)くして豊沢(ほうたく)を受く。
臨めば万仞(ばんじん)の淵(ふち)よりも深し。
船頑(かたくな)にして巨川(きょせん)を渡る。
責めは千鈞(せんきん)の石よりも重し。

京を出(い)でて後、月日は重なれども、
朝(あした)の煙絶え、夕(ゆうべ)に宿空しく、
妖害(ようがい)は何によりてか去らん。
悪名はついに除こなんとす。
今はただ合掌して、仏道に帰依(きえ)し、
心をめぐらして罪果を厭離(おんり)す。
     (中略)
さりながら、宿習(しゅくじゅう)に引かれて、
楽天(らくてん)の「北窓三友」の詩を思ひて
作らせ給ひたる廿八韻(にじゅうはちいん)の詩を聞くこそ、
いよいよ御心の内知られて、哀れに覚(おぼ)ゆれ。

  勅使(ちよくし) 駆将(かり)て去りしより
  父子 一時に五処に離る
  口に言ふこと能(あた)はず 眼中(がんちう)の血
  俯(ふ)し仰ぐ 天神(てんじん)と地祇(ちぎ)と
  東(とざま)に行き西(かうざま)に行き 雲眇眇(はるばる)
  二月三月(きさらぎやよひ) 日遅遅(うらうら)
  重関(ちようかん) 警固(けいご )して 知聞( ちぶん)断え
  単寝(たんしん) 辛酸(しんさん)にして 夢見ること稀(まれ)なり
  山河〓矣(はくい )として行くに随(したが)ひて隔(へだ)つ
  風景黯然(あんぜん)として 路(みち)に在(あ)りて移る
  平(たひ)らかに謫所(たくしよ)に致(いた)るとも
   誰と与(とも)にか食(は)まん
  生きて秋風に及ぶとも 定(さだ)めて衣も無(な)からん
  古(いにしへ)の三友は一生の楽しびなれど
  今の三友は一生の悲しみなり

これぞその中の七句。句ごとに腸(はらわた)を断ちぬべし。

道の遠くなりければ、心細く思(おぼ)して、
北の方へ奉らせ給ひける御歌を聞くこそ、哀れに覚(おぼ)ゆれ。

  君が住む宿の垣根をゆくゆくと
  隠るるまでにかへり見しかな

京には、この御歌を御覧じて、紅の涙を流させ給ひける。
理(ことわり)に思して、よその袂(たもと)まで絞りあへずぞありける。

(参考文献:小松茂美編『続日本の絵巻15 北野天神縁起』中央公論社、1991年)
※漢詩の読み、詞書の解釈については、私意により一部改めました。


ここまで来て、ようやく牛車(ぎっしゃ)に乗せられた道真が登場します。
ワンシーンしか展示されていなくても、詞書はこのように長いのです。

これは必見!(その9) 

37「北野天神縁起絵巻(承久本)」 (1)承久本の概要

北野天満宮の所蔵する国宝で、現存最古の天神縁起絵巻です。
本文に、現時点を「承久(じょうきゅう)元年(1219年)」と記載していることから、
「承久本(じょうきゅうぼん)」と呼ばれています。
ちょうどこの年、鎌倉幕府3代将軍・源実朝(みなもとのさねとも)が暗殺されました。

紙を横方向ではなく縦方向につないだことで、
縦52cmという巨大な画面を作ることに成功しました。
このサイズ展開をやってのけた縁起絵巻は、
他に国宝「当麻曼荼羅(たいままんだら)縁起絵巻」があるだけと聞いています。
こちらは鎌倉国宝館の特別展「鎌倉の精華──鎌倉国宝館開館八十周年記念──」
(10/10〜11/24)で公開されています。

御神体に準じて厳重に保管されていたため、保存状態は非常に良いものです。
ただ、「天神縁起を最後まで描いていない」「絵の構図が他の絵巻と明らかに異なる」
など、知名度の高さに反し、未解決の問題も数多く残されています。

今回展示されるのは10/26までが巻4・巻6、10/28からが巻3・巻5となっています。
後半では「東風吹かば……」や天拝山(てんぱいざん)あたりが
出るかとも思われますが、
前半でも巻4の「恩賜の御衣(おんしのぎょい)」は出していませんでした。

明日から、前半の展示部分を詳しく見ていきますので、お楽しみに。

これは必見!(その8) 

4「白磁円硯(はくじえんけん)」

道明寺天満宮(大阪府藤井寺市)が所蔵する、道真の遺品とされる国宝群の一つです。
直径27cm、高さ6.3cm。焼き物の硯で、中国からの輸入品です。
かなり大きい物だけに、重量はどれくらいあるのでしょう?

白磁円硯

(写真提供:九州国立博物館)


特別展では、背の低いガラスケースを見下ろす格好になります。
10cm先に11世紀前があるというのは、なかなか不思議な感覚ですよ。

画面に写っているものは、すべて国宝です。

右側にあるのが 3「犀角柄刀子(さいかくつかのとうす)」。
サイの角を使った刀で、木簡(もっかん:文字を書くための細長い板)の表面を
削り、再使用するために使う文房具です。言うなれば消しゴムや修正液ですね。

左側にあるのが 1「牙笏(げのしゃく)」。
現在の神職が使うのは木製ですが、これは象牙でできています。
象牙製は五位以上(=つまり文字通りの貴族)に限られます。
もともとは式次第を書いた紙を裏側に貼り、
カンニングペーパーとして使われていましたが、
次第に威儀を正すための道具として使うようになりました。

いや、でもカンペ使いたくなる気持ちは分かるんですよ。
年中行事だけでも数が多いし、内容もひとつひとつ細かいし、
天気によっても内容が変わりますし。
「この時ああしたけど、あの行動は間違ってる!」と、
後に醍醐天皇おんみずから臣下の所作に突っ込んでおられます。

本来、硯の底には周囲に沿って足があったはずですが、現在はなくなっています。

20年近く前に初めて対面した道真ゆかりの品ということもあり、
この硯には個人的にかなり思い入れがあります。

ただ、今展示目録を見ていて気がついたんですが、
他の遺品類が「9世紀」とあるのに対し、この硯だけが「7世紀」になっていました。
道真は9世紀後半(845年生まれ、903年没)の人ですから、
輸入までのタイムラグを考慮しても、古さが際立っています。
彼より前の世代の人が使っていたものを受け継いだ可能性もありますね。

これは必見!(その7) 

31「観世音寺(かんぜおんじ)梵鐘(ぼんしょう)」

高校の古文でもおなじみの『大鏡(おおかがみ)』に、
こんな一節があります。左大臣時平伝より意訳。

筑紫で住んでおられた所は、門を固く閉ざしておりました。
大宰大弐(だざいのだいに)のいる官庁は遥か遠くにあるとはいえ、
不意に正門の上の瓦などが見える時もあります。
また、観世音寺という寺がすぐ近くにあるので、
鐘の音をお聞きになって、このような詩を詠まれました。

  都府楼(とふろう)は わずかに瓦の色が見えるばかりで
  観音寺は ただ鐘の音に耳を傾けるに過ぎない

この詩は、『白氏文集』で白居易(はくきょい)が

  遺愛寺(いあいじ)の鐘は 枕にもたれて聴き
  香炉峯(こうろほう)の雪は 簾(すだれ)を跳ね上げて見る

と詠んだ詩よりも優れていると、昔の博士などは申したものです。

「遺愛寺」の詩句は、中宮藤原定子の問いに対し、
清少納言がとっさに簾を巻き上げて庭の雪を見せた『枕草子』の
エピソードでも有名です。

道真が住んでいたのは、大宰府政庁の南方にある「南館」。
大宰府政庁の瓦は大量に出土しているようですが、
今回は鬼瓦のみ展示されています。
また、太宰府政庁のことを「都府楼(とふろう)」と呼ぶのは、
道真のこの詩に由来します。
「都督府(ととくふ)」(地方を統括する中国の役所)の
「楼」(たかどの)の意味です。

図録の解説によれば(41頁)、
彼が見た瓦の色は、まだら模様の灰色だったとか。
うわぐすりを掛けていないので、緑色ではないんですね。意外。

そして観世音寺は、規模を縮小しながらも現存しています。
境内に鐘楼があり、中に吊るされているのが、今回展示される鐘です。

観世音寺の梵鐘

(写真提供:九州国立博物館)


飛鳥時代、妙心寺(みょうしんじ)(京都市)の梵鐘と
前後して同じ工房で作られたものと考えられています。ともに国宝です。
しかも道真が聴いた鐘の音は、大晦日などに現在でも響いています。

過去の特別展では音色を録音して流した事もありますが、
今回は残念ながら「音の展示」はありません。
しかし、実は九博のサイトで聴くことができるのです。

何の迷いもなく澄んだ音に、ただ黙って耳を傾ける道真。切ないです。

常設展で特別展 

常設展は過去にも見たし、古墳とアジア関係多いし、
照明を落とし気味なので、すぐ道に迷うし、今回は見送りかな? と思ったら、
「関連するものがいくつか出てますよ」と天の声。特別展のチケットで入れます。

展示室に入ったら、まず一番奥まで直進して下さい。第8室が遣唐使の部屋です。
輸出品と輸入品を思う存分触れますので、九博初体験の方はここで遊んでみても。

その手前のガラスケースにあるのが、宋の禅僧・無準師範(ぶしゅんしばん)から
弟子の円爾弁円(えんにべんねん)へ送られた手紙の写し。(〜10/26)
渡唐天神(ととうてんじん)な師弟コンビですね。
天神が円爾への弟子入りを希望したら、無準のもとへ行くよう勧められましたから。

そのまま右へ移動し、第7室の前へ。
重要文化財『延暦寺座主(えんりゃくじざす)円珍(えんちん)伝』(〜10/13)が
あります。
道真と同時代の文人、三善清行(みよしのきよゆき)による高僧の伝記。
隣には白居易(はくきょい)の『白氏文集(はくしぶんしゅう)』などが並んでいます。

さらに右へ。第6室に入ります。
この部屋の奥に座すのが、「大威徳明王(だいいとくみょうおう)像」。(〜10/26)
真木大堂(大分県豊後高田市)所蔵。重要文化財です。
手6本足6本で牛に乗る、巨大な像です。

大威徳明王と大自在天(だいじざいてん)は天神の神号にもその名が用いられます。
原型はヒンドゥー教における、白牛ナンディンに座すシヴァ。

第5室の前に移動し、重要文化財『古今和歌集』亀山切(〜10/13)をチェック。
展示部分末尾近くに、「本院贈太政大臣」「ひだりのおほいまうちぎみ」とあります。
これは本院左大臣(ほんいんのさだいじん)こと
藤原時平(ふじわらのときひら)のこと。
「本院」は彼の屋敷の名称。比較的近年になって発掘されていました。

(追記)
展示目録を見て気がついたのですが、
シアター4000に隣接するVテーマ「丸くなった地球 近づく西洋」にも
渡唐天神像が出ているようです。これは大穴でしたね。

これは必見!(その6) 

21「類聚国史(るいじゅうこくし)」 (〜11/3)

国宝。これも加賀藩主・前田綱紀(つなのり)のコレクションです。
『日本書紀』から道真が編纂に関与した『日本三代実録(にほんさんだいじつろく)』
まで、律令国家が編纂した6つの歴史書を、単なる年次順から
テーマ別+年次順に並べ替えたもの。編者は道真です。

文章を省略したり追加しない徹底した原文主義
(年号は改元の日の前後で修正しています)、
熱心な仏教徒でありながら、仏事部を外交関係に準じて末尾に置いた事など、
道真の見識の高さが評価されています。
たとえ、漢詩文が残らなくても、神様に祀られなくても、
これさえ残っていれば「菅原道真は優秀な学者だった」という評価は動かないのでは。

大まかな配列だけ頭に入れておくと、特定の事柄について探す時に非常に便利です。
よく出来た実用書だと思いますよ。惜しむらくは全体の3分の1程度しか残っていない事。

これは必見!(その5) 

23「延喜式(えんぎしき)」 (〜11/3)

ようやく国宝の御登場です(笑)。「式」とは施行規則や行政通達を集めたもの。
「厳密には亡くなった後だけど、同時代の史料だから出すのかな?」と
思いきや、展示されていたのは、お固い法律ならぬ地図でした。

延喜式の左京図

(写真提供:九州国立博物館)

「道真が『東風吹かば……』と詠んだのはここですよ〜」とやりたかったらしい。

ただ、どこか非常に探しにくいので、探し方をお教えします。
まず中央の折り目から、視線を手前に引いて下さい。
そこで通りの名前から「綾小路(あやのこうじ)」を探し、再び上へ。
中央付近に「紅梅殿(こうばいでん)」が見つかります。その左が「天神御所」。
『東風吹かば……』を詠んだのが紅梅殿、現在菅大臣神社があるのが天神御所です。

学芸員さんに「この辺は現在どうなってますか?」と聞かれましたが、
「googleストリートビュー」で簡単に見られます。その方法。

(1) googleマップで「モンプチシュシュ」(ペットショップ)を検索する
(2) 「ストリートビュー」をクリックする
(3) 天神御所跡地の南西角が表示されるので、西洞院通をひたすら北(=画面左)へ進む
(4) 途中、菅大臣神社の西側の鳥居の前を通る
(5) 仏光寺通との交差点から先、綾小路通との交差点までが紅梅殿があった場所

ちょうど西側から屋敷跡を眺める格好になります。
今年の春に完成したマンションが近辺にあったので、まさに直近の画像です。
道真の書斎跡(紅梅殿の南西角)はうどん屋・病院・ニューアル中の児童公園。
民家と小規模店舗の目立つエリアのようですね。

21世紀の京都より中継でお送りしました。
それではスタジオにお返しします。……なんてね。

ちなみに、仏光寺通を東に入ると、菅大臣神社の北側の入口も見られます。
北菅大臣神社は奥にありすぎて、どうにもこうにも写っていませんでした。残念。

これは必見!(その4) 

28「白玉帯 丸鞆」

背後の復元模型でも分かるように、革ベルトの飾りに使われた石です。
中央の小さなカマボコ型のものが、昨年出土したもの。
道真終焉の地・榎社(えのきしゃ)付近から出土したとして話題になりました。
(日本経済新聞にも載っていました……なぜ?)

白玉帯と龍牙硯

(写真提供:九州国立博物館)


太宰府天満宮の味酒安則(みさけやすのり)さんは、当時
「道真公の物に違いない!」と熱く博多弁で語っていましたが、
新聞には、「残念ながらその可能性は低い」と、
発掘担当者の冷静なコメントが踊っておりました。

隣にある石が、その味酒家に道真の遺品として伝来している硯。
道真の最期を看取った味酒安行(うまさけのやすゆき)の子孫なのですよ、この方。

今回展示されている玉帯は青白いものばかりですけど、
平安京からは「まさに大理石!」と言わんばかりにカラフルなものが出ていますので、
なかなかおしゃれな装いだったようです。

これは必見!(その3) 

16「菅家文草(かんかぶんそう)」(巻1:〜10/19、巻2:10/21〜11/16)

道真が自身の作品を集大成した漢詩文集です。巻6までが詩と詩序、巻7〜巻12が散文。

菅家文草・巻1

(写真提供:九州国立博物館)


巻1で展示されるのは冒頭部。とりあえず題の下の注記部分を拾い読みして下さい。

「月夜に梅花を見る〈斉衡三年乙亥。時に年十一。
  厳君(げんくん)、田進士(でんしんじ)をして試みしむ。
  予(よ)始めて詩を言ふ。ゆえに篇首(へんしゅ)に載す。〉」
11歳の作。自分が嵯峨天皇の前で詩を詠んだ年齢になったので、
父・菅原是善(これよし)が弟子の島田忠臣(しまだのただおみ)に命じて
作らせたものです。記念すべき処女作のため、巻頭を飾っています。

「臘月(ろうげつ)に独り興ず〈時に年十有四。〉」
「残菊の詩〈十韻、時に年十六。〉」
14歳と16歳。そのままですね。

「『赤虹篇(せきこうへん)』を賦(ふ)し得たり、一首
 〈七言十韻。これより以下四首、進士(しんじ)の挙(きょ)に応ずるに臨み、
  家君(かくん)日毎に試みる。数十首有りと雖(いえ)ども、
  その頗(すこぶ)る観るべきを採(と)りて留(とど)む。〉」
「『青を詠ず』を賦し得たり、一首〈十韻、泥字、擬作。〉」
「『躬桑(きゅうそう)』を賦し得たり、一首〈六十字、題中韻。〉」
「『折楊柳(せつようりゅう)』を賦(ふ)し得たり、一首〈六十字、題中韻。〉」
この4首は、文章生(もんじょうしょう)選抜試験を前に、
父親が日々出題した模擬試験の解答から抜粋したもの。
問題文を今風に直せば、
「○○を題材にした五言律詩を作れ、韻字は□、文字数は△字。」
といったところ。17〜18歳、青春まっただ中の受験生です。

「九日宴に侍(はべ)り、同じく『鴻雁(こうがん)来賓(らいひん)す』を賦す、
 各(おのおの)一字を探り、葦を得たり、応製
 〈これより以下十九首、進士(しんじ)及第の作。〉」
晴れて文章生となり、九月九日の重陽の宴に出席したときの詩。

「八月十五夜、厳閤尚書(げんこうしょうしょ)、
 『後漢書(ごかんじょ)』を授け畢(おは)んぬ。
 各(おのおの)史を詠じ、黄憲(こうけん)を得たり〈序を并(あは)せたり。〉」
菅原家の私塾で是善が続けていた『後漢書』(中国の歴史書)の講義が終了したので、
毎年恒例の八月十五夜の宴席でも、そこから題材が取られました。
道真は20歳。序文も書いています。

あとはもう自注も少ないので、訓読のみあげておきます。

「重陽宴に侍り、『景(ひかり)秋稼(しゅうか)に美(うるは)し』を賦す、応製」
「梅華を翫(もてあそ)ぶ、各(おのおの)一字を分かつ〈探りて勝字を得たり。〉」
「八月十五夜、月亭に雨に遇ひ月を待つ〈韻を探りて无を得たり。〉」
「秋風詞〈題中韻。〉」

展示品解説ではなく、漢詩講座みたいになってしまいました。
でもここまで長々と展示するのは本当に珍しいんですよ。

11/18からは、晩年の漢詩集「菅家後集(かんかこうしゅう)」とセットで
別の写本に変わりますが、この「菅家後集」がなかなかスゴいものなので、
(「前田家甲本!」と言われて分かる人は少ないでしょうが……)
改めて会期後半に取り上げるかも知れません。

これは必見!(その2) 

39「メトロポリタン本 北野天神縁起絵巻』 (巻3:〜10/26、巻4:10/28〜)

その名の通り、アメリカのメトロポリタン美術館が所蔵している絵巻です。

道賢(どうけん)という僧侶が、太政威徳天(だいじょういとくてん)に
転生した道真に会ったという「道賢上人冥土記(どうけんしょうにんめいどき)」
(別名「日蔵夢記」)の内容を詳しく描いた、非常に珍しいものです。

前回は一部分を少しだけ見せる程度で、まるで肩すかしでしたが、
今回は、道賢が笙の窟(しょうのいわや)に籠る巻3冒頭部から、
太政威徳天城に向かう場面まで、かなり長めに展示されています。

メトロポリタン本

(写真提供:九州国立博物館)


会期後半は、地獄に落ちた醍醐天皇を道賢が目撃する箇所が展示されます。
後世名君と讃えられた君主が、もとどりをさらして炎の中にたたずむ
ショッキングな光景に、戦前は紹介さえはばかられたシロモノをとくと御覧下さい。

これは必見!(その1) 

35「北野天神御伝 并 御託宣等」 (〜11/16)

前半の「北野天神御伝」が、孫である菅原在躬が著者という説もある、
現存最古の道真の伝記。
江戸時代に加賀藩主前田綱紀(つなのり)が鎌倉で発見したものです。
道真が投壷(とうこ)を得意とした、なんて珍しいエピソードも。

北野天神御伝の写真

(写真提供:九州国立博物館)


今回の展示の趣旨は、ここに道真の遺言が記載されていることでしょう。

「異郷で死んだ者は遺骨を故郷に返す習わしだが、
 自分は思うところがあるから、それは希望しない……」

と、先祖代々の墓所がある吉祥院(きっしょういん)(京都市南区)
地域への埋葬を拒否したからこそ、今の太宰府天満宮があるのです。
社殿は道真のお墓の上に建っていますからね〜。

非常に貴重なものなんですが、
図録の写真はなぜか正室・島田宣来子(しまだののぶきこ)の叙位の
記事あたり(55歳時点)で終わっており、肝腎の部分がありません。
悲しいかな、現物限りです。

なお、会期後半は綱紀書写バージョンに変わります。
こちらは図録にも完全収録されています。

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