これは必見!(その14) 

37「北野天神縁起絵巻(承久本)」 (6)巻6「落雷災禍」「落飾崩御」

930年の夏は旱天(かんてん)が続き、いっこうに雨が降りませんでした。
そこで6月26日、貴族たちは宮中の清涼殿(せいりょうでん)に集まり、
醍醐天皇の臨席を仰ぎ、雨乞いの実施について会議を開きました。

会議のさなか、午後1時頃に西北の愛宕(あたご)山方面から黒雲が発生し、
一天にわかにかき曇り、平安京は雷雨となりました。
すわ恵みの雨かと喜んだのもつかの間、
午後2時半頃、清涼殿の南西の柱に雷が落ちたのです。

承久本・落雷災禍

(写真提供:九州国立博物館)


この時の被害は建物の損壊に留まりませんでした。

会議の出席者では、
大納言藤原清貫(きよつら)が焼死し、右中弁平希世(たいらのまれよ)が重傷。
隣接する紫宸殿(ししんでん)にいた
右兵衛佐(うひょうえのすけ)美努忠包(みぬのただかね)も即死。
紀蔭連は腹部に、安曇宗仁(あずみのむねひと)は膝にやけどを負いました。

清貫と希世は半蔀(はじとみ)(雨戸の一種)に乗せられて
宮中から運び出され、そのまま自宅へと向かいました。
両家に仕える者たちが悲報を聞いて宮中に殺到し、
いくら制止しても泣き叫ぶ声はとどまるところを知りませんでした。

絵巻では落雷とその被害の話にしか触れておらず、
詞書も非常に短いものとなっています。
そこで歴史書『日本紀略(にほんきりゃく)』の記事により書いてみました。

この出来事を目の当たりにした醍醐天皇は、病に倒れます。
3ヶ月後、回復の見込みもないまま8歳の皇太子寛明(ひろあきら)親王に位を譲ります。
さらに1週間後、病床で出家したその日に崩御(ほうぎょ)してしまいました。

承久本・落飾崩御

(特別展図録より転載)


常寧殿(じょうねいでん)に読経の声が低く響きわたり、諸臣が涙をぬぐう中、
画面左上で仰向けになった醍醐上皇は、もうろうとする意識の下、
僧侶にカミソリを当てられています。これが延喜親政の終焉でした。

この光景を最後に、巻6は幕を閉じます。



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