これは必見!(その21) 

49「北野天神縁起扇面貼交屏風(きたのてんじんえんぎ せんめんはりまぜびょうぶ)」

道明寺天満宮蔵。
その名の通り、「北野天神の縁起を扇面に描いて貼り交ぜにした屏風」です。
縦5枚×6面×2つ=60枚の画面に、ごくごく短い説明文と対応する絵が描かれています。

北野天神縁起扇面貼交屏風

(写真提供:九州国立博物館)


通常、「扇面屏風」と呼ばれるものの多くは、
「扇に貼る紙の形に切った紙を貼りつけた」屏風です。
しかしこの屏風の扇面に画面にはくっきりと折り筋が残っており、
元々は扇に仕立てられたものを、屏風に仕立て直したことが分かります。

一見しただけでは60枚すべてが同じ時期に描かれたように見えますが、
一部色調が薄く白味を帯びたものがあり、
それらは後世に追加で制作されたもののようです。

現在は右上から左上へ読み進められるように並べられていますが、
以前は順番などお構いなくバラバラに貼られていました。
それを補修がてら天神縁起の順序に沿って貼り直したのは、つい数年前のこと。
あちらを見てこちらを見るという立ち位置の変更を繰り返した挙句に
腰を痛める心配がなくなったのは、本当にありがたい事です(笑)。

ちなみに、詞書と絵が一致しないものも存在します。
19枚目がまさにそれで、
合掌する貴族を描いた画面構成、
「恩賜の御衣」の後、「天拝山(てんぱいざん)」の前にある位置関係から、
道真から『菅家後集(かんかこうしゅう)』を贈られた紀長谷雄が、
天を仰いで嘆息するシーンである事は間違いないのですが、
「九月十五日に月を見て昔を偲ぶ」うんぬんと、異なる文章がついています。

天神縁起を読むと、長谷雄が贈られた詩のひとつとして、
9月13日に道真が詠んだ詩を引いているので、これを指しているようですね。


天神さま研究所(その2) 

もう1枚、小さいホワイトボードには、
チラシと特別展のイベントを記入したカレンダーが貼り出され、
余白に研究所職員の予定が書き込まれています。

よく見ると、これがなかなか遊んでいる箇所なのです。

職員の顔ぶれは、「松王丸」「梅王丸」「桜丸」。
彼らの今日の行動予定が書き込まれています。
『菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ)』の3兄弟、
こぞって奉公先が没落したと思ったら、
こんなところで再就職してたんですか……(笑)。

車引の芝居絵

(写真提供:九州国立博物館)


『菅原伝授手習鑑』車引の芝居絵より、左から三男桜丸・長男梅王丸・次男松王丸。
梅王丸の背後に立つのは、左大臣藤原時平(しへい)です。

腰掛石の調査がどうのこうのというメモ書きを発見。
学芸員さんいわく、
「山陽道の菅公腰掛石をたどれば、
 通ったルートが分かるのではないかと思うんですが」とのこと。
山陽道の道真ゆかりの地を踏破したラジオパーソナリティ、
馬場章夫(ばんば ふみお)氏に聞いてみるのはいかがでしょう?

その下には、「道真の趣味は菊作り ←確定!」なる記述が。
実はコレ、当初はなくて後から追加された書き込みなんです。
道真さんが履歴書を書いたら、趣味の欄は「庭いじり」だと私も思いますが、
これを書いた人は、最初彼の白菊愛好癖を知らなかったのではないでしょうか。
会期途中で知ったとしたら、ひどくコアな情報を拾われたものです。

妙なマネキンが一体、奥のパソコンに向かっています。
首から下げたIDカードには「名誉所長」の文字。
紫の朝服(ちょうふく)なので、どう見ても彼は道真さん。
本職の所長ではないのに、毎日出勤しておられます。

天神さま研究所

(写真提供:九州国立博物館)


触っても良いとの事でしたので、
「この衣装どこから調達したのだろう?」と不思議がりながら、
ペタペタ存分に触ってまいりました。

等寸大だけに、「会期終わったら貰えないかな」と、不遜にも思う今日この頃です。
(いや、おそろしく場所取りますって……。)

天神さま研究所(その1) 

展示第1室の突き当たり、映像コーナーの奥にある白い空間が、
「天神さま研究所」。勝手に「ラボ」と呼んでいます。

室内の設備はパソコン3台、本棚2つ、ホワイトボードが大小合わせて3枚。

天神さま研究所

(写真提供:九州国立博物館)


パソコンでは古代の星空や太宰府天満宮の祭礼が動画で流れています。
本棚には『古事類苑(こじるいえん)』のような専門書から、
一般向けの軽い本まで。一部は手に取って読めるようになっています。
入れて欲しい本をいくつか挙げておきましたので、
反映されている可能性はあります。

大きいホワイトボードには、
一般から募集した天神社関係の投稿記事が貼り出されています。
開催前から募集していますが、掲示枚数は日々増えています。

ただ、素人さんが書いているので、
内容が薄かったり、明らかに間違えているものもあります。

「学芸員できちんと調べろよ!」という厳しい意見が
某掲示板で出ていましたが、確かにそれは言えてますね。
話題作りには充分なっていますが、
特別展を見る時の参考になるかと言えば……、難しいところ。

天神さま学習帳 

特別展会場で小学生に無料配布されているガイドブックがあります。
その名もズバリ「天神さま学習帳」(!)。

B5版フルカラー、全20頁。
表紙はジャポニカ学習帳のパロディー、
中身はスクラップを貼り込んだA罫大学ノート風です。

天神さま学習帳の表紙


道真の略歴・絵巻のトピック別解説・福岡県の天神社折り込みマップの3部構成。
絵巻のページはポップで面白いですよ〜。

「九博界隈」に登場した時点から密かに狙っていたところ、
内覧会で学芸員さんから頂いてしまいました。
もっとも、これは個人的な役得(誰彼構わず配ってる訳ではなかった)で、
部数に限りがあるので、原則として子供を連れて行かないと入手できません。

とは言うものの、実はコレ、大人にもすこぶる評判が良いのです。
300円程度で有料頒布しても、買い手がつくでしょう。
福岡市立博物館の時は、文字通りの「小」冊子でしたから……。

せめて「Asiage」のように、PDF版があれば喜ばれますね。
本音を言うと、著作権の問題さえクリアできれば、
絵巻ネタの部分をスキャナーに掛けて紹介したいくらいです。


(2009/4/14追記)
九博から送付されたのか、全国各地の県立図書館に現物があるようです。
また、国際子ども図書館(東京国立博物館の近所)にもあります。

現物をご覧になりたい方は、地元の図書館で取り寄せ(と館内閲覧)を
依頼してみてはいががでしょうか。

Asiageのギミック 

九博の季刊誌「Asiage(アジアージュ)」vol.10に、特別展特集があります。

この雑誌、PDF版もありますが、紙媒体でも無料で配布されています。
「神か怨霊か。畏れか親しみか。」ってキャッチコピー、格好良いですね。

そこで読者の方が入手した現物を頂いて、発見した事が。

Asiageの表紙


一見、表紙には「恩賜(おんし)の御衣(ぎょい)」のシーンが使われています。

しかし表紙を少し持ち上げてみると……?

Asiageの表紙アップ


問題の絵は、表紙ではなくその下(3頁目)に印刷されていました。

最初にPDF版で見た時、なぜ今回に限って表紙を地味にしたのか不思議だったのですが、
こういうギミックがあったんですね。

「わざわざ位置を合わせてくり抜いたら、余計印刷コスト上がるでしょう……」と
いらぬ心配をするのは、野暮(←天神信仰だから)ってもんでしょうか。

あると便利なモノ 

美術品を見るのに小型のオペラグラスを用意するのは玄人向けな話ですけれど、
これを事前に用意しておけば便利じゃないかと思うものを挙げてみます。

承久本『北野天神縁起絵巻』詞書釈文のコピー
少し大きな図書館なら大型本のコーナーにありますので、
その後半部分から巻4と巻6の活字部分をコピー。余裕があれば事前に音読(笑)。
これがあると、絵だけ見て終わりにはなりません。字も見事なんですよ。

所功『菅原道真の実像』(臨川書店、2002年)
巻末の「『菅家伝』記事年表」に、
「菅家伝(=北野天神御伝)」の読み下しが掲載されています。
軽い本なので、該当部分だけコピーしなくても、そのまま持参すれば大丈夫です。

あとはこのブログかな(自讃)。同行する相手に見せておくと重宝すると思います。

これは必見!(その20) 

87「十一面観音菩薩立像」

道明寺(どうみょうじ)(大阪府藤井寺市)蔵。国宝。
平安時代初期(9世紀初頭)、
一本の木から彫り出す一木造(いちぼくづくり)の手法で作られました。
会場では道真が作ったと説明されていますが、
前の世代の人間が発願してプロに彫らせたものでしょう。

完成度は非常に高く、仏像マニア御用達の奈良国立博物館あたりで
観音像の特別展を開いたら、まず個別にオファーが掛かると思います。

十一面観音菩薩立像

(写真提供:九州国立博物館)


これが道真展を開くたびに目玉として登場する理由は、2つあります。

ひとつは、天神の本地仏(ほんちぶつ)が十一面観音菩薩とされること。

奈良時代末期から明治時代初頭まで、
日本の神々はさまざまな仏が別の姿で現れたものとされてきました。
これが本地垂迹(ほんちすいじゃく)説で、
おおもとの仏を本地仏と呼びます。

天神の本地は文殊(もんじゅ)菩薩だとされたこともありましたが、
比較的早い時期から観音菩薩の化身と見なされてきました。
ただ、なぜ観音の中でも十一面なのか、という問いに対して
明快な解答を打ち出した人はいなかったと思います。

そして道明寺が菅原氏の氏寺であること。

もともと、この寺は土師寺(はじでら)という名前で、
土師(はじ)氏によって飛鳥時代に建立されました。
その土師氏の一支流が菅原氏です。
奈良時代末期、桓武(かんむ)天皇の時代に、
道真の曾祖父らの申請によって改姓しました。
当時一族が住んでいた地名「菅原(すがはら)」に由来しますが、
現在でも、奈良市内にその名前は残っています。

菅原氏の氏寺としてはもう一つ、
平安京郊外の吉祥院(きっしょういん)がありますが、
こちらは道真の父親の代に建てられたので、
時代はぐっと下がります。

明治の神仏分離令を受け、道明寺は神社と寺院に分離しました。
両者合わせての規模も、往事よりはずっと小さくなっています。

道明寺


十一面観音そのものは毎月18日に一般公開されていますが、
厨子(ずし)の中だと、なかなか細かい部分までは見えないもの。
仏像を心ゆくまで鑑賞できるのは、博物館のメリットです。
ただ、今回は背中の壁が半円形になっているので、
背中側がほとんど見えませんでした。それが残念なところです。

これは必見!(その19) 

20「和漢朗詠集(わかんろうえいしゅう)」 (〜11/3)

平安時代中期に藤原公任(ふじわらのきんとう)が編纂した、
季節別・テーマ別の和歌と漢詩文のアンソロジー。
TPOに応じた一節を当意即妙に口ずさめるのが、格好良い貴族の条件のひとつなのです。

和漢朗詠集

(写真提供:九州国立博物館)


展示されているのは、巻上の末尾部分、「帰雁」から「仏名」まで。

一番下に作者名が書かれているので、そこを見ておきましょう。
「白」が白居易(はくきょい)、「菅(丞相)」が道真。
あと「紀納言(きのなごん)」「藤篤茂」「醍醐御製(だいごぎょせい)」なども
ありました。「藤篤茂」は道真の弟子、藤原篤茂(ふじわらのあつしげ)のこと。

「紀納言」は紀長谷雄(きのはせお)。道真と同じ年の弟子ですが、
後半生における親友でもあり、『菅家後集(かんかこうしゅう)』の原型本
『西府新詩(さいふしんし)』を託された人物です。

これは必見!(その18) 

2「銀装革帯」

道真の遺品とされる革製のベルトです。何と革の部分まで残っています。
飾り部分は、銅を銀でメッキし、水晶をはめ込んだもの。

硯同様、これも中国からの輸入品です。
現代の日本人なら、フランス製の品々で身の回りを固める感覚なんでしょうね。

銀装革帯

(写真提供:九州国立博物館)


国宝だけあって、復元品が存在します。そうなりますと……。
「巻いてみたら、道真のウエストサイズが分かるのでは?」
そう考えて実際に巻いた人がいます。

この人が誰かは少しうろ覚えなんですが、
「ふくよかではないけれど、細身とは言えない中年男性」だと
書いておきましょう。道真さん、人並みにメタボ入っていたのですね……。

家政婦は語る!? 

音声ガイドは日本一有名な家政婦……ではなく、市原悦子さんです。
菅原家の内幕を暴露するわけではないので(笑)、
日本昔話をイメージして聞いて下さい。

承久本「北野天神縁起絵巻」や道明寺の十一面観音立像(両方とも国宝)など、
有名どころは物語調で、説明も少し長めです。
話のネタに借りてもよいのではないでしょうか。

しかし、「18歳で難関の国家試験に合格し」というのは、
「26歳」の間違いではないでしょうか?(原稿の問題)
18歳での文章生(もんじょうしょう)選抜試験合格は最年少タイ記録ですけれど、
26歳で受験・合格した方略試(ほうりゃくし)は
「約230年で道真含めて合格者65名」という難易度を誇りますから。
しかも漢文による論文試験。

試験問題・解答・評価の3点セットが揃う貴重なケースなのに、難しくて読めません。

それなのに試験官に論理展開の甘い部分や誤字を指摘され、
道真さんは少なからず不機嫌になったのでした。(これはホントの話)

承久本、複製で完全公開 

10/21から11/3まで、承久本「北野天神縁起絵巻」の複製が
博物館1Fミュージアムホールで別途展示されます。観覧無料。

日本ヒューレット・パッカード社が制作し、
北野天満宮に奉納したもの。全長約80m。
「平成記録本」と命名されましたが、さしずめ「日本HP本」ですね。

原本が部分的に公開されることはありましたが、
この絵巻を最初から最後まで通しで見られる事はまず考えられないので、
複製とはいえ、非常に貴重な機会だと思います。

今年の5月、寄贈を記念して北野天満宮で公開された時も、
半分ほどしか展示されなかったようです。

とりわけ、江戸末期に絵巻の下張りとして発見され、
線だけの下絵状態で終わっている巻9は、
今後もまず公開されないのではないでしょうか。

天神さま検定 

色モノの一環として、「天神さま検定」が会場内に掲示されています。

天神さま検定・問題と解答

(写真提供:九州国立博物館)


3択全10問。そんなに難しいものではない……かな?
「和歌」を「俳句」と書いていた箇所があったので、訂正してもらいました。
地元民でもないのに、天拝山の標高を即答できる自分がイヤだ。

どういう訳か、解答まであちこちにあります。
問題見てすぐ答え見る流れは、試験本番ではありえない話ですよ〜。
展示品を良く良く見れば解答が分かる、という問題設定が理想なんですけどね。

全問正解で「右大臣」。
「え、『贈太政大臣』じゃないの?」と本気で思いました(笑)。

確かに生前は右大臣止まりでしたけれど、
没後に怨霊慰撫対策で官位の追贈が繰り返されたので、
最終的には最高位の正一位太政大臣にまで達しているんですよ。

3問以下ならさしずめ「文章生(もんじょうしょう)」でしょうか。

これは必見!(その17) 

52・55・61「束帯天神像」 (55:〜10/19、52・61:〜10/26)

道真=天神の肖像画のスタンダード、
束帯天神(そくたいてんじん)の鑑賞方法の話です。

束帯天神

(写真提供:九州国立博物館)


平安貴族である道真にとっては、束帯こそいたってオフィシャルな格好ですが、
描き方に一定のルールがあるのです。
すなわち、「憤怒の感情を仕草のはしばしに忍ばせる」。

具体的には、以下のような仕草で表現されています。
「眉をしかめる」
「口を軽く開き、食いしばった歯をのぞかせる」
「左手に持つ笏(しゃく)を、右手で上から押さえつける」

55(中央)はこの構図を踏まえた典型的な例で、
さらに目を大きく見開いています。
残念ながら今回は出ませんが、
道真像として広く知られる北野天満宮の「根本御影」にしても、
よく見ると眉根が寄っていたり、まなじりを決していたりするのです。
京都国際文化交流財団による写真を思い切り拡大すると良く分かります。)

52(右)は荏柄天神社の「雲中(うんちゅう)天神」と呼ばれるもの。
落雷の最中に天から落ちてきた天神画像がこの図柄だったという事で、
雲に乗って立つ姿を描いた、珍しいものです。
会期後半には、この巨大バージョンが出ますので、乞うご期待。
(その際は、ちょっと面白い昔話も出す予定です。)

61(左)は岡山県立美術館が所蔵する、雪舟等楊の筆によると伝えられる一品。
松と梅の間に座らせるという、独特の構図で描かれています。
ちなみに、山口県立美術館の特別展「雪舟への旅」では
渡唐天神像も展示されました。
こちらは彼の出身地である岡山県総社市の「広報そうじゃ」の連載
「雪舟逍遥」第11回(2007年2月)(PDF版もあり)で見られます。

これは必見!(その16) 

48「天満宮縁起画伝(満盛院本)」 (〜10/19)

天神縁起には、大きく分けて「文字だけ」「文字と絵(=絵巻)」
「絵だけ(=掛幅)」の3パターンがあります。

掛幅は、その名の通り壁に掛け、絵に描かれた内容を横に立って説明するもの。
内容に沿って細かくコマ割りされています。
絵巻よりも大勢の人を相手にできるメリットがありますが、
パワーポイントとレーザーポインターを使うようなものなんでしょうか?

天満宮縁起画伝・満盛院本

(写真提供:九州国立博物館)


こちらは全部で8巻もあり、コマ数も非常に多いです。
「川面に姿を映す道真」「ナマズを退治する道真」など、
福岡ならではの話も追加されていますが、読み解けないものもちらほら。
さすがの味酒さんも、完全読解は不可能との事でした。

これは必見!(その15) 

37「北野天神縁起絵巻(承久本)」 (7)未完の縁起絵巻

巻7の冒頭には、道賢(どうけん)が地獄を訪れるシーンがありますが、
いっこうに詞書のないまま、巻8まで延々と地獄と六道の描写が続きます。

絵巻の裏打ちに使われていた下絵には、
天神縁起絵巻の基本的なシーンが、判別が困難なほど薄い墨色で描かれており、
当初はきちんと完結させる予定であったのが、
何らかのトラブルが発生して未完のまま中断したと考えられています。

誰が、何のために、この絵巻を作ろうと考え、なぜ中断に至ったか?
これらの問いに対し、決定的な答えはいまだに出ておりません。

これは必見!(その14) 

37「北野天神縁起絵巻(承久本)」 (6)巻6「落雷災禍」「落飾崩御」

930年の夏は旱天(かんてん)が続き、いっこうに雨が降りませんでした。
そこで6月26日、貴族たちは宮中の清涼殿(せいりょうでん)に集まり、
醍醐天皇の臨席を仰ぎ、雨乞いの実施について会議を開きました。

会議のさなか、午後1時頃に西北の愛宕(あたご)山方面から黒雲が発生し、
一天にわかにかき曇り、平安京は雷雨となりました。
すわ恵みの雨かと喜んだのもつかの間、
午後2時半頃、清涼殿の南西の柱に雷が落ちたのです。

承久本・落雷災禍

(写真提供:九州国立博物館)


この時の被害は建物の損壊に留まりませんでした。

会議の出席者では、
大納言藤原清貫(きよつら)が焼死し、右中弁平希世(たいらのまれよ)が重傷。
隣接する紫宸殿(ししんでん)にいた
右兵衛佐(うひょうえのすけ)美努忠包(みぬのただかね)も即死。
紀蔭連は腹部に、安曇宗仁(あずみのむねひと)は膝にやけどを負いました。

清貫と希世は半蔀(はじとみ)(雨戸の一種)に乗せられて
宮中から運び出され、そのまま自宅へと向かいました。
両家に仕える者たちが悲報を聞いて宮中に殺到し、
いくら制止しても泣き叫ぶ声はとどまるところを知りませんでした。

絵巻では落雷とその被害の話にしか触れておらず、
詞書も非常に短いものとなっています。
そこで歴史書『日本紀略(にほんきりゃく)』の記事により書いてみました。

この出来事を目の当たりにした醍醐天皇は、病に倒れます。
3ヶ月後、回復の見込みもないまま8歳の皇太子寛明(ひろあきら)親王に位を譲ります。
さらに1週間後、病床で出家したその日に崩御(ほうぎょ)してしまいました。

承久本・落飾崩御

(特別展図録より転載)


常寧殿(じょうねいでん)に読経の声が低く響きわたり、諸臣が涙をぬぐう中、
画面左上で仰向けになった醍醐上皇は、もうろうとする意識の下、
僧侶にカミソリを当てられています。これが延喜親政の終焉でした。

この光景を最後に、巻6は幕を閉じます。

これは必見!(その13) 

37「北野天神縁起絵巻(承久本)」 (5)巻6「公忠奏上」

923年、皇太子保明(やすあきら)親王と時期を同じくして、
源公忠(みなもとのきみただ)という人物が急死しました。
ところが、彼は2〜3日後に息を吹き返し、「内裏に連れて行け!」と口走りました。
息子2人は訳の分からないまま父親と共に内裏に参上したところ、
公忠が醍醐天皇に報告した内容は、恐るべきものでした。

「冥府(めいふ)にたどり着いたところ、
 束帯姿の大男が黄金の文ばさみを手に、陛下の非道を切々と訴えておりました。
 30人あまり役人が居並ぶ中、その内のひとりが薄笑いを浮かべて、
 『今の帝は愚か者ですが、改元でもしたらどうしましょうか?』と口にしたのです。」

「束帯姿の大男」が道真だと察した醍醐天皇は恐れおののき、
道真を右大臣に戻し、正二位(しょうにい)を追贈しました。
さらには道真を左遷した時の詔書を焼き払い、
「延喜(えんぎ)」から「延長(えんちょう)」へと改元しました。

承久本・公忠奏上

(特別展図録より転載)


階(きざはし)に登り、顔を伏せたまま事の次第を奏上する公忠。
左上隅では、普段着姿の醍醐天皇が不安気な表情で聞き入っています。

公忠が急死した話は虚構かも知れませんが、醍醐天皇の取った行動は史実です。
愛息保明親王の死が、道真の祟(たた)りによるものだと世間は噂しました。
詔(みことのり)から年号まで、道真の左遷につながるものを一掃し、
保明親王の息子を皇太子に据えましたが、
新皇太子も2年後にあえなく亡くなってしまいます。

そしてさらに5年が経過した年の晩夏、未曾有の椿事が宮中を襲います。

これは必見!(その12) 

37「北野天神縁起絵巻(承久本)」 (4)巻6「時平病臥」

源氏との共闘で道真を政界から追い落とした左大臣藤原時平(ときひら)ですが、
それからわずか8年後、909年4月4日に39歳の壮年で亡くなってしまいます。

普通に長生きしていれば、政治家としてそれなりの評価を受けられたところ、
摂関家の本流は同母弟忠平(ただひら)に奪われ、
道真左遷の首謀者として責任を一身に背負わされ、
今なおただの悪役扱いで、割に合わない人生になってしまいました。

承久本・時平病臥

(写真提供:九州国立博物館)


ここに描かれたのは、その時平が亡くなった日の話です。

投薬治療も祈祷も効果がないので、時平は三善清行(みよしのきよゆき)の息子である
浄蔵(じょうぞう)を呼び、祈祷を行わせました。

昼過ぎに清行が見舞いに訪れると、時平の両耳から蛇が首をもたげています。

承久本・時平病臥

(特別展図録より転載)


画面右端に座すのは三善清行。右下隅で祈っている僧侶が浄蔵。
相対して病床に臥す時平の両耳には蛇の姿が描かれています。

蛇は清行の姿を認めた途端、こう一喝しました。

「帝釈天に怨敵(おんてき)を討つ許しを得たというのに、
 貴殿は息子に私を調伏(ちょうぶく)させる気か!」

清行は慌てふためき、別室にいた浄蔵に祈祷を中止するよう伝えました。
(絵巻では同席していますが、護摩壇を使うため別の場所になります。)
浄蔵が席を立った途端、時平は息絶えてしまいました。

甥の皇太子保明(やすあきら)親王は21歳で急死。
孫の皇太子慶頼(よしより)王は5歳で夭折。
長男の八条大納言・保忠(やすただ)は47歳、
三男の枇杷(びわ)中納言・敦忠(あつただ)は38歳で早世し、
長寿を誇ったのは、質素な生活に徹した
次男の富小路(とみのこうじ)右大臣・顕忠(あきただ)ばかりで、
本院(ほんいん)の血筋は時代に埋没しました。
この辺の話は『大鏡』に詳しく述べられていますので、
関心を持たれた方はご一読下さい。天神縁起の元ネタの一部になっています。

これは必見!(その11) 

37「北野天神縁起絵巻(承久本)」 (3)巻4「配流陸路」(その2)

わざわざ長文を引いたのは、もう一つ理由があります。
後半が道真の「楽天(らくてん)が『北窓(ほくそう)の三友』の詩を読む」を
そのまま引いている事は一読するとすぐ分かるのですが、
実は前半も「意(こころ)を叙(の)ぶ、一百韻(いっぴゃくいん)」という漢詩を
下敷きに書かれている文章なのです。

「生涯に定地なく、運命は皇天にあり」の絶唱から始まる1千字もの長編を
かいつまんで意訳すると、このようになるでしょうか。

生涯に定めなどなく
運命は天のしらしめすところ
思いもよらなかった 大宰府に赴任することになるとは……
右大臣の名は なぜ左遷にすり替わったのだ?
塵よりも軽く引きずり下ろされ
弓のように急激に放り出された
恥じ入る事を繰り返して 厚顔無恥となり
踵(くびす)を返す暇(いとま)もなく追い払われた
年老いた召使いは いつも杖にすがっている
疲労した馬には 何度も鞭(むち)を打つ
分かれ道に来ると 腸(はらわた)ははち切れんばかりに痛み
都城の門を遠望すれば 目に穴があく思いだった
朝露にまぎれて涙を流し
ホトトギスにかこつけて嗚咽(おえつ)する
     (中略)
害悪を加えられる事は避けようがない
だが汚名は雪(そそ)ぎたいと思う
邪悪なものが正義に勝ったためしはない
それとも真実は虚構に取って代わられるのだろうか?
     (中略)
同病相哀れむ友を求め
辛さを分かち合える故人を探し求める
才能はとうとう行き詰まり
富は結局のところつまづくもの
傅説(ふえつ)は宰相になる前は傅巌(ふがん)で杵(きね)を振るい
范蠡(はんれい)は湖に小舟を浮かべて越(えつ)を去った
賈諠(かぎ)が左遷された長沙(ちょうさ)の地は湿気が多く
屈原(くつげん)が身を投げた湘水(しょうすい)は水が巡り流れる
従二位(じゅにい)を授けられ 私は無意味に位ばかりが高くなった
誰を後任として数合わせの右大臣に据えたのだろうか
親友は食物を分け与えてくれ
親戚は衣服を洗ってくれた
すでに生きる辛さを慰められてきた
どうしてすぐにでも死にたいなどと考えようか?
     (中略)
運命の転変を恨むつもりはない
人生の辛酸は前世からの因縁
少しずつ快楽を捨て
徐々に生臭いものを遠ざける
合掌して御仏に帰依し
心をめぐらせて禅を学ぶ
果てしない今の欲望を嫌い
先人の真実の悟りを敬(うやま)う
     (中略)
世間とはますます疎遠になり
家から手紙が届く事もない
やせて帯がゆるくなり 紫色の服は色あせてしまった
鏡を見ると白髪頭が嘆かわしい
今の心境は 雲の合間を縫って飛ぶ雁(かり)
木にしがみつく蝉のように 寒々とした声で鳴く
蘭の香りが損なわれる秋になり
九回満月を迎えた
     (中略)
責任は千斤(せんきん)もの巨石より重く
立場は万仞(まんじん)の淵(ふち)に臨むように危ういものだった
大臣大将を兼ねて仰ぎ見られる立場になったが
人には功績も知識もないと口を揃えて言われた
     (中略)
つたない器ながら帝に重用され
つまらぬ小舟ながら補佐して大いなる川を渡った
国家の恩徳に応えられぬまま
辺境でのたれ死にしてしまうのだろうか
     (中略)
私に対する処分は法律の規定よりも厳しい
功績を石に刻み 後世に伝えられる事もなくなった
忠誠を誓い 君主の鎧(よろい)となろうとした事を後悔している
加えられた刑罰は 矛(ほこ)を振り下ろされるよりも辛い
取るに足りないかやぶきの貧居
陰鬱な海のほとり
私の住まいはこれで充分
この地が終焉の地になるのだろう
たとえ羊〓(ようこ)の魂が 故郷の〓山(けんざん)を慕っても
遠く離れた燕(えん)の地に埋葬されたら 彼はどう思うだろう
禍福はあざなえる縄だと思い知らされた
運命を占うつもりなどない
思いのたけを一千文字に込めたところで
誰が哀れんでなどくれようか

3分の1程度でも、すさまじい量ですね。
絵巻の詞書との対応を考えれば、書き下しの方が良かったかも知れません。
道真の慟哭が通じなくなる可能性は極めて高いのですが……。

承久本・配流陸路

(特別展図録より転載)


前の簾(すだれ)を巻き上げているのは、護送されていることを示すもの。
衆目にさらされるのは、堪え難い屈辱であったことでしょう。
実際、「意を叙ぶ」には、道中にあふれ返る野次馬を前に、
「胸焼けをこらえきれずに吐き、身も心もぼろぼろになった」という
趣旨の記述が見えます。

なお、展示されてはいませんが、巻4は以下のように展開しています。
船で瀬戸内海に乗り出す道真一行、
大宰府で秋を迎え、醍醐天皇から頂いた衣を前に涙に暮れる道真、
そして彼の死を受けて届けられた漢詩を前に天を仰ぐ紀長谷雄(きのはせお)。

巻1から始まった生前の物語は、ここで一旦結末を迎えます。

これは必見!(その10) 

37「北野天神縁起絵巻(承久本)」 (2)巻4「配流陸路」(その1)

巻3の終わりで、紅梅殿の梅に別れを告げた道真は、山陽道を西に向かいます。

巻4冒頭の詞書(ことばがき)は非常に美しいものですから、
長くなるのを覚悟で御紹介したいと思います。

承久本・配流陸路

(写真提供:九州国立博物館)


生涯は定まれる地なし。運命は皇天(こうてん)にあり。
思はざりき、大臣・大将より大宰(だざい)の権帥(ごんのそち)に
遷(うつ)されて、
輔弼(ほひつ)阿衡(あこう)の貴名を改めて、
配流(はいる)左遷の拙(つたな)き名を継がんとは。
朝の露をば袂(たもと)の上に打ち払ひ、
呼ぶ小鳥の声こそ枕上(ちんじょう)に伴へ。
     (中略)
五代帝王の御幸(みゆき)には、緑〓(りょくじ)の馬に乗りてぞ、
鳳輦(ほうれん)の御先(みさき)には打ち給(たま)ひしに、
駅馬の蹄(ひづめ)痛く、鞭(むち)をのみ費やす。
     (中略)
傅築(ふちく)巌辺(がんぺん)の〓(ごう)、
范舟(はんしゅう)湖上の篇、
我が身いかなる悪果に引かれて、旅の空に漂ひて、
雲を開く雁(かり)に伴ひ、
日終(ひねもす)に吟じて樸(ぼく)を抱(いだ)く蝉とも成りぬらん。

三峡五湖の暁(あかつき)の波に涙流れ添ひ、
呉坂楚嶺(ごはんそれい)の夜な夜なの嵐に目をのみ覚ましつつ、
昔を思へば、
器の拙(つたな)くして豊沢(ほうたく)を受く。
臨めば万仞(ばんじん)の淵(ふち)よりも深し。
船頑(かたくな)にして巨川(きょせん)を渡る。
責めは千鈞(せんきん)の石よりも重し。

京を出(い)でて後、月日は重なれども、
朝(あした)の煙絶え、夕(ゆうべ)に宿空しく、
妖害(ようがい)は何によりてか去らん。
悪名はついに除こなんとす。
今はただ合掌して、仏道に帰依(きえ)し、
心をめぐらして罪果を厭離(おんり)す。
     (中略)
さりながら、宿習(しゅくじゅう)に引かれて、
楽天(らくてん)の「北窓三友」の詩を思ひて
作らせ給ひたる廿八韻(にじゅうはちいん)の詩を聞くこそ、
いよいよ御心の内知られて、哀れに覚(おぼ)ゆれ。

  勅使(ちよくし) 駆将(かり)て去りしより
  父子 一時に五処に離る
  口に言ふこと能(あた)はず 眼中(がんちう)の血
  俯(ふ)し仰ぐ 天神(てんじん)と地祇(ちぎ)と
  東(とざま)に行き西(かうざま)に行き 雲眇眇(はるばる)
  二月三月(きさらぎやよひ) 日遅遅(うらうら)
  重関(ちようかん) 警固(けいご )して 知聞( ちぶん)断え
  単寝(たんしん) 辛酸(しんさん)にして 夢見ること稀(まれ)なり
  山河〓矣(はくい )として行くに随(したが)ひて隔(へだ)つ
  風景黯然(あんぜん)として 路(みち)に在(あ)りて移る
  平(たひ)らかに謫所(たくしよ)に致(いた)るとも
   誰と与(とも)にか食(は)まん
  生きて秋風に及ぶとも 定(さだ)めて衣も無(な)からん
  古(いにしへ)の三友は一生の楽しびなれど
  今の三友は一生の悲しみなり

これぞその中の七句。句ごとに腸(はらわた)を断ちぬべし。

道の遠くなりければ、心細く思(おぼ)して、
北の方へ奉らせ給ひける御歌を聞くこそ、哀れに覚(おぼ)ゆれ。

  君が住む宿の垣根をゆくゆくと
  隠るるまでにかへり見しかな

京には、この御歌を御覧じて、紅の涙を流させ給ひける。
理(ことわり)に思して、よその袂(たもと)まで絞りあへずぞありける。

(参考文献:小松茂美編『続日本の絵巻15 北野天神縁起』中央公論社、1991年)
※漢詩の読み、詞書の解釈については、私意により一部改めました。


ここまで来て、ようやく牛車(ぎっしゃ)に乗せられた道真が登場します。
ワンシーンしか展示されていなくても、詞書はこのように長いのです。

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